遅くなってしまいましたが、7月23日に行われた対話の会例会の記録の紹介です。
オンラインで行われ、分科会での対話の後にシンポジウムという流れでした。
今回はシンポジウムの内容について紹介します。
<シンポジウム記録>
【コメンテーターより】
学習課題の納得度について話題が出た。その是非も。そもそも子どもたちは何を納得したのか。主張?事例?
内容と形式のバランス。事例から主張を辿り、その往還が見られたんじゃないか。そのため教師の出はどうしたらよかったか。
そもそも、子どもの引っ掛かりとは何だったのか。
結論に興味があって、主張の抑えが弱い。そもそも筆者がこういうことを言いたい、だからこの事例なんじゃないって。事例の是非を問う。内容が子どもの経験と合う、合わないもあるだろう。点で読んでて、線で読んでない。感覚的な根拠の説明文・・・科学的な根拠は弱い、「生き物の円柱形」はだめ、「想像力スイッチ」の話もあやしい、子どもの問いとか願いで進めたい場合、この材での進め方はむずかしいのではないか?
教材文に対して、どういう風に考えていたか。納得度からA君への育ちにどう影響したか。育ちを後押ししていたか。クラスの中で、A君がどう学んでいけばよいのか。
指導計画の中に先生の思いは表れている。常日頃、A君にかかわっていたか、伝わってくる。クラスの子たちにどう返していくか、A君をどう楽しませていくか。
そもそも、この子が本気で学ぶときを考える。どう読み取らせようとか。授業者がA君のノートに朱書きで周りの子へ目を向けてほしいと書いている。
納得、納得度という話が出たけど、子供にとって納得って何か。子どもの願いと教師の願いの整合性。説明文への興味関心は「構造」にあった?本当は「内容」じゃないのか。子ども側から見た論理と筆者の側から見た論理が混在していた。教材文のどの事例も大事。
納得できるかできないかというのは、筆者の考えに敬意をもった上ですべき。「批判」の価値が下がる。相手の意図を明確に受け取った上で批判すべき。だから、教材文のどの事例も必要だった。Dの段落は初めて他者との比較になっている。そういう意図を知った上で批判することが大切。
【チャットでの意見】
最初に批判していた自分が否定される、自分の学び直しが起きるような展開が、授業者の願う「失敗させる」を実現することになるのではないでしょうか。
そういう意味で、この展開は、後半にかかってくるのではないかと思いました。
教科書における説明文の内容理解や構成的特性の理解は,言語運用者として武器を揃える営みなのかなと思います。批判をする場合は,自分が言語運用者となった場合,その相手,場,時によって批判的に考え,どの武器(内容,表現,資料の活用,構成)を使うのかを選択する必要なのかもしれないのかと考えました。そのため,初めて内容に触れる児童が,筆者のうえに立って批判するのは,かなりの技術が必要なような気がします。
私もこの教材を実践してみて、Dの段落が子供たちの議論になることが毎回です。実験の結果は納得がいかなくてもそういうものなのかなと思えるようですが、「例えば」から始まる最後の一文が飛躍的に感じるようです。A君、B君を始めとする子供たちはそこをどう捉えたのか。
【コメンテーターより】
内容と形式のバランス、形式に寄っちゃう。そもそも説明文を学ぶ意味は・・・。批判的であっても、筆者に対する賞賛もあってほしい。Dは飛躍していると感じちゃうが。
この事例はダメじゃなく、本当にこれはダメなのかを考える子や、この事例を理解できない、
納得できない自分はなぜなのかを考えてほしい。と願っています。
動的な対話と静的な対話がありますよね?動的な対話も当然大切ですが、高学年の子どもたちには、静的な対話(①作品との対話、②筆者との対話、そして、③自分との対話。)も大切だと考えています。この実践のおかげで、対話の大切さ、材について改めて考える良い機会となりました。ありがとうございました。
失敗させる、ゆだねるっていうのが学級経営の土台にあって。これを大事にしてやってきているんだって。あれだけしゃべれる子どもたちをつくっているっていい。
この子を大事にする。子どもの問いからスタートする。それは大切なこと。でも、そのためにどう教師が出るか、子どもに気づかせていくか。だが、教材に寄ったら子どもを大事にしていない、というわけではない。自分のどんなコメントで、もう一度子どもが自分を見つめ直すかってところが重要ではないか。批判をするなら相手の言いたいことを分かった上で。だから子どもの想いを大事にすることも、教材理解を大事にすることも大事。
【小林会長より】
納得するとかできないとか、納得って言葉をこの学級の子どもがどう使っているか。授業の中では、方法、構成の仕方、それぞれ子どもは意識して学んできている。筆者がとっている構成が納得いかないのか。両面を分かった上で、他人の行動を受け入れられるか、了承できるか。他者のことをどう思うか。
A君は自分の話を周りにどう納得されているか気にしているか。A君は主張しているが、周りにどう見えているかという思慮は足りていない。 A君が闊達に話すほど「A君すごいな」という周りの想いが強化される。それは授業者の狙いなのか・・・。
授業者自身が変わってきている。自分の想いが先だったこれまで。でも今は「失敗させる」「ゆだねる」という言葉が出てきたことで変わってきたと感じる。でもまだ揺れている。「子どもとはそういうものだ」「今から完璧じゃなくてよい、そしてこれからも」という言葉から「わたしたち教師も失敗する」ってニュアンスへ変わっていくと面白い。2,3割の子どもはついていけないんじゃないか。だれを気にするか、ついていけないこの子たちに焦点を当てることも。私たちはそのような子どもたちに何を最低限保障するか。
【授業者の振り返り】
揺れている。気にするべきはAだったのかなと思う。手助けが必要な子どもは他にもいただろう。私の気になる子どもは授業をつまらなさそうに受けている子どもなんだと再確認した。反省点は・・・
・材への理解
・筆者への敬意
・学習課題の言葉選び
・事例との関連付け
・筆者の主張への理解が足りなかったこと
・子どもたちの発言の整理
・A君理解
国語科で私はどう授業していきたいか。子どもはどう願っているか。2、3割の子たちはどう思っているか。
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